hateyasco’s diary

すべてはyascoが思うままに。

自分を受け入れる訓練

悩みやすきyascoは

なかなか自分を認められなかった。

私は優れていなければ、

回りに認めてもらえない。と

思い込んだ高二の英語の時間。

スネスネに拗ねちゃって

どうせ、みんな面白い人しか好きじゃないんでしょとか。

スネスネ拗ねまくりだったなと。
(いまだから、あれは拗ねてたと言えるけど…)

自分がどうしたいのかわからず、

そもそもどうしたいのかとも考える所にも居らず。

英語の会話を勉強しながら

はて、

私は何を喋りたいの?

話したいこともない。

あっても、

話したい相手もいない。

はて(-ω- ?)

私はなんなの?

この世に存在していながら

存在する理由がみつからない!

だが、

さすがに高二。

脳ミソどもども体力はあったので

モリモリ考えて

手当たり次第、

目に見えたものを口に出すような感じで

果てしなく適当に

できるだけしゃべるように頑張った。

でもね、

なんだかみんなはそういうのは興味なかったみたいで

私はあまり、

人気ものではなかった。

まあ、

人気がでる必要も

とくにはなかったんだけどね。

そんな感じの会話生活で

仲の良い人が

いたような居ないような?

そして、

社会に出てからも

会話の課題はなかなか手強くて。

私は

なかなか友達などかできず

ワケわからんうちに

随分と時間が過ぎていった。

そして、

それからかなりたった今。

最近になってようやく

友達なんぞ、やりたいことをやりたいようにやり
(このキーワード恐ろしいほど理解が難しいのですけど)

相手を思って過ごしながら

自分が今のままでも良くて、

もちろん、

前進しててもよくて、

でもまあ、

あまりふがいない感じだったとしても良くて

発言するときに、

「発言する言葉を一体誰が聞くのか?」

については考慮して発言していれば

(例えば、聞いたら誰かが傷つくようなこととか、
罵詈雑言的なものとかをね、自分が口から出したら、それを誰が聴いて耳に入れて感じるかというようなことですかね)
(極端なこととかね)

何となく、

友達的な人たちが

回りにいてくれるようになったり

自然に離れていったり

するもので、

その、離れるとかくっつくタイミングとかってのは

一個人が、選べないこともあるし

それを、

自分がどうとらえるかということが、

左右しているようだなって、

感じられるようになりました。

人生の曲がり角にいるyascoは

やっと大人になれるのかもしれません。

随分なピーターパンでございますな。